幼少期から意識障害と生きる
心身の不調
これは現代病?
私は、幼少時から心身の不調がある。 主に意識障害を持つ。
現代でいえば、小学校ではADHDとされて特別支援教育を受けていただろう。 しかし、私は昭和世代である。ゆとり世代にギリギリ入っていない。
だから、学校で騒げば先生から容赦のない体罰を受けた時代だ。同級生からは、からかわれ、理由もなく殴られる。毎日に何度あるか分からない。そのうちにイジメが日常となった。
高校時代
高校へ進学となり、迷わず市外の遠い学校を選んだ。いじめが劣悪化しており、このままでは生きていけないなと感じたからである。
三重県の松阪市の高校へ進むことになった。風土的に不良の多い街である。当時は。いわゆる手が早いヒトの多い地域だ。 そのせいか、いじめに遭うことは一切なかった。私の多様性を受け入れてくれる同級生ばかり
青春とはこれほど明るいものかと、心の底から感じた記憶は懐かしい。
ただ、残念ながら、教師からは非常に嫌われて、イジメといえる処遇をうけた。ADHDの浸透していない教育現場では、落ち着きがない生徒など、煙たくて憎まれる存在だったらしい。
成人になると
子供の成長期とは複雑だなと、19歳の自分は感じていた。ヒトとはかけ離れた性格であったし、良い事より、悪いことばかりだった。
19歳なので、まだ成人ではないけれど、働き出した以上は、昔のことなど忘れ、仕事に没頭するのみである。
失われた青春時代を挽回する。という気構えで、誰よりも働いた。
病態の悪化
子供のころは、やはり、保護されていたのだなと感じる。
働きだしてから、意識障害はますますひどくなり、ADHDは寛解しなかった。通常は大人になると寛解する割合が多い。
であるから、私は成人のADHDである。
ADHD(ADD)チェックシートというものがある。医療機関へかかれば、精神科医から口頭で質問されるわけだ。私は満点が取れるくらいチェックに該当する。
今ではインターネットでチェックできるものだ。しかし、然るべき医療機関で判断を仰ぐ必要がある。自問自答や一般人がチェックシートに沿ってADHDを診断するなど論外だ。
「僕はADHDでは?」といった思惑の入ったチェックは、いわゆる作業に過ぎない。親が子を見る場合も同じである。
ADHDでなければ見れない世界をマンダラアートへ
生まれながら、ずっとADHDである。そうすると、やはり常人とは異なる感覚や角度でものを見たりする。 「ここ、綺麗だよね」「この瞬間はなんて感動的なんだ」「感無量だ」 ヒトはそれぞれ感覚は違う。 僕は感動に対しては、とても広く受け入れられるといった特徴を持つ。かなり深く感動することもある。
そして気づいたのだ。通常のヒトには見えない感動の存在に。試しにその感動を表現してみた。私の場合、マンダラである。 すると、感動が相手に伝わった。なんともいえない発見だった。
見えないものを描く
見えるものや、想像できるものを描くのは、一般的だ。僕はもう年を取ったし、一般的な絵画の世界で競争しようとは思わない。 だから、僕にしか見えないものを描く。世界中を眺めても競争相手はいないし、気楽なものだ。 アートとしてマンダラの記法がとても体に合っている。 しかし、時としてフリーハンドや、ミュージックにしてみたくなったり、いろいろと手を出している。
目標は、Masaya-Otaniのアートの独創性の向上だ。どこまでも惜しみなく努力し、忍耐を重ねる覚悟はできている。